2013年8月10日土曜日

『TheLastofUs(ラストオブアス)』 エンディング考察

ラストオブアスのエンディングはやや何かもやっとした後味の残るものでした。全編を見通していくことでこの物語を自分なりに紐解いていければと思います。以下ネタバレ含みます。

不信ージョエルの旅

このゲームで出会う人々は皆相互不信に満ち満ちています。
全ての道中の挿話は「信頼」にまつわるものであり、このゲームの物語の根幹をなしていると言えるでしょう。
まずはそれらの挿話一つ一つをざっくりと見て行きましょう。

"利己性"

テスの挿話は、人は自分の命が危険に侵されるような状況下では利己的に振る舞ってしまうこと、信頼よりも、自己の生存が優先されうることを示している。だから彼女の「私を見捨てて行って」という最期の選択にジョエルは関わることができなかった。あの問題はもはや、二人の問題ではなく、個人の問題になってしまっていたからです。あの世界において信頼関係を成就させることの困難を、この途絶からは見ることができます。

"相互信頼の不確かさ"

ビルは愛する人のために生きることは馬鹿だといいます。一人で生きた方が生存確率が上がるのだと合理性を振りかざしさえする。しかし彼にも愛し愛された人がいたという。その時の苦い経験から引き出した教訓ということだったらしい。ところが実は彼は愛した人には愛されてはいなかったと言う事実が明らかにされる。それどころか、忌み明嫌われてさえいた。実は一方的に二人の間に愛があったと誤解していたというわけです。ここでは双方向の信頼成立の不確かさが皮肉めいて描かれています。

"交換可能、交換不可能"

ヘンリーとサムの黒人兄弟の話は、しょせんゆきずりの浅い間柄であれば裏切るのもくっつくのも自由自在、そのどちらにも重みを持たせない、そういう間柄を描写しています。しょせんあの世界においては人は利用できるかできないかの交換可能なものでしかない。しかしヘンリーにとってのサムはそうではない。交換不可能な存在なのです。人を交換可能なものとして見るとき、心からの信頼はありえません。しかしビルが言うように、交換不可能な存在を持ってしまったために、ヘンリーは自身の存在理由を失ってしまい、自決に至るのです。これはまたジョエルとエリーのそうありえる一つの可能性を示してもいます。

"不信への転落"

弟に関するエピソードは、兄弟であっても、同じ死線をくぐり抜けた間柄でも、不信に陥り袂を分かつ可能性を示唆しています。しかし、ほのかに昔の間柄が見え隠れするのが微笑ましくもありました。

"絶対的な邪悪"

この世には決して分かり合うことのできない絶対的な邪悪が存在していることを、変態ロリ野郎は教えてくれます。理を尽くした信頼関係などそもそも成立しえない動物的に利己的な悪です。無法であることをいいことにやりたい放題やっている。このような人間と助け合い、共存することは不可能です。

"中規模組織の脆さ"

ファイアフライは、理想を持った共同体でも、それが中規模で未成熟でもあるがゆえに、リーダーの愚鈍さひとつで暴走してしまう危険性を示しています。

"社会そのものへの不信"

そして冒頭、大規模に編成された組織、つまり「社会」そういうものにも彼は裏切りをくらい、最愛の娘を失っている。

ここまで見て分かるように、個人から大規模な組織まで、様々な水準で世界に蔓延る不信の形が変奏されていきます。
そして、これらの全てがエリーとジョエルの最後の選択に関わって来ています。

罪ー烙印を押された少女

今まではずっと「ジョエルの視点」から物語を見ていきました。
今度はエリーの視点から見てみる必要があります。
ジョエルにまつわる話が"不信"であったとするならば、エリーは"罪"となります。

まず一つこのゲーム体験を語るにあたって重要なロジックが用いられているのでその解説をします。
ゲームにはあり、映画には踏み込めない領分、それは"感情移入のロジック"です。
そしてこの物語では、"殺人を犯すことによる罪"というテーマが背後に常に付きまとっているのです。我々プレイヤーは実はそうした体験を実はさせられている。しかしそれは表には出てきません。ゲームの目的は敵を倒して先に進んでいくことですから、そこが前景化しすぎてしまうとまずい。
まず、
1.ポストアポカリプス的世界では、自分の生存が何より優先され、根本の目的になること、
2.病原菌に冒された非人間=脅威
という二つの道具立てがあり、このことによって敵を殺して進んでいくことは一応肯定されています。
それで何の疑問なく進むことができるかというとそうではなく、
1.ジョエルが冒頭で娘を亡くしている
このことがプレイに影を落とします。彼はそこで果たして、他人を蹴落としてでも自分が生き残ろうというほどに利己的な人間だったでしょうか?
いえ、むしろ彼よりもずっと"利己的な社会、制度、システム”によって娘を殺害された被害者であったはずです。
2.そして、クリッカーについてですが、明らかに彼らは「元人間」であったということが道中で何度も強調されます。
こうして「敵を倒すことによる罪」というファクターは背後に隠されながら、なお強調されているという構図が見えると思います。
このような仕掛けが存在することによる罪悪感を、プレイヤーもゲームを進めていく中で背負わされ続けるのです。

このことを踏まえてエリーの物語を見てみましょう。
大きなポイントとなるのは、ジョエルがエリーに人の殺し方を教える場面です。あの場面で彼らが負っている罪について示唆することが映画における限界ならば、その先を体験させるのがゲームだと言えます。あそこで、彼女はジョエルから殺し方を教わってしまう。そして、殺しの技術を会得した。そうして冬の章のジョエルとエリーのカットバックがあります。映画的技法であるカットバックを、操作キャラクターを切り替えていくことで実現するのは、これもゲームと映画の境界を逆手に取った非常に面白い演出と言うことができるでしょう。"自らがキャラクターを操作する"というゲームの特性と絡まることで彼女が操作キャラになったとき、彼女が冒していく罪は、つまり我々の罪はより鮮やかに強調されることになります。


ラストー彼らは何を選んだのか

「あたしはまだ待ってるの」
烙印は、罪の象徴です。
死は遅いか早いかの違いであり、このセリフはそのことを告げようとしているのだと思うのです。罪からは逃れられない、あの世界では皆がそれに絡め取られている。最後まで生き延びたと思われるジョエルとエリーもやはりその例外ではなかったのです。

ジョエルは、世界がああなる前の世界を生きていますが、エリーは生まれた時から世界はあの惨状です。信頼のない世界が彼女にとっては当たり前であり、そこはジョエルと違い葛藤にはならない。ただ、なぜか生まれた時から罪の刻印が押されている、その不条理だけは感じていたはずです。

「どれもお前のせいじゃない」とジョエルは言います。
「そういうことじゃないの」とエリーは返答します。
二人の生きてきた世界は異なっている。
責任の問題ではなく、腐った世界に産み落とされ、烙印を押されたものは待つことしか許されていない。

「俺はな 生きるためにずっと戦ってきた お前も
何があっても戦う目的を見つけなきゃダメなんだ」

ジョエルの最後の選択は、「世界に生きる人々全てを救うか、一人の女の子の命を救うか」というものです。この旅で彼が本当に信じられると思ったのはなんだったでしょうか?彼が信じるに足ると考えられるものを、社会は、人々は、示すことができていたでしょうか?そこにあったのは、渦巻く不信ばかりだったはずです。
「戦う目的が必要だ」と言う彼のその言葉は彼自身の利己性によるものというよりも、本当に自分の信じられるものを選んだ結果なのです。
そしてジョエルは嘘を守り通す誓いを立てます。
エリーは答えます。

「わかった(OK)」

この「わかった」、英語版では「OK」となっているエリーの返答をどう捉えるのか。
それがこの物語を理解するのに大きな鍵となっています。
ここでの「わかった」には実に二つの意味が錯綜しています。了解と、受諾です。
形式の次元においては了解を、意味の次元においては受諾を、それが、ここにおける「わかった」です。
エリーはジョエルのついた嘘の事実に対して「了解」したのではありません。
そうではなく、今まで2人について2章に渡って語ってきた、「自分の生きなければならないこの世界の有様」と、また「ジョエルの余地のない選択、つまりジョエルの見てきた世界の全て」に対して、「わかった」と言って「受諾」したのです。
「OK」といって軽く了解するようなポーズを取って。
「ちょっくらこの人とこの世界を生きてみるかな」、そんな風に。

2013年6月22日土曜日

『初音ミク -Project DIVA- F』 リズムゲームのUI

初めに

今回は「初音ミク -Project DIVA-」シリーズのゲームインターフェースについてお話しようと思います。
Project DIVAシリーズといえばキャラゲーであるとか、ファンディスク扱いで軽んじられることの多いゲームかもしれません。
しかしリズムゲームのゲーム性について考察していくことでそれとは別の面が見えてきます。
DIVAには革新的な面が多いのですが、それを知るにはまずリズムゲームがどういうものかを理解しなければなりません。


リズムゲームにおけるリスクとリターン



[1]

これはKONAMIの「ビートマニア」のゲームインターフェースです。
見ただけで分かる方が大半でしょうが、
①上方から降ってくるバーが②赤いラインにぴったり重なった時にボタンを押すと成功となります。
(以下分かりやすくするために①の種のものをサウンドアイコン、②を判定部と呼びます)

これをリスクとリターンに言い換える。
判定部にサウンドアイコンが近づき続けることでリスクが増え続けます。2つがぴったり重なったときリスクは最大(そこを過ぎると得点は最低になる)になり、同時にリターンも最大(最大得点)になる、とこういう構造になっています。

ただ位置が重なるところでボタンを押させるだけではゲームにはなりません。そこには駆け引きがないからです。
つまりリズムゲームをゲームたらしめているのは、その得点の付け方にあるのです。



フレーズとテンポ



[2]
それではDIVAの解説に移ります。
①画面上に散りばめられた判定部へと向かって②飛来するサウンドアイコンがぴったり重なった時に対応したボタンを押すと成功となります。
何が先の画面と違うのでしょうか。

もっとも大きく異なるのは判定部の扱われ方です。
判定部がサウンドアイコンと同数だけあるというのがここでのポイントになります。
(ボタンの種類(4種類)は赤いバーの列数と対応していて変化ではない)
それが意味することはなんでしょうか?

そのことを考える前に分かりやすくするための2つの概念を便宜的に準備します。
フレーズと、テンポです。
リズムは、フレーズ(ある特定のひとかたまり)にテンポ(ある特定の速さ)が合わさることで生み出されるものとし、
リズムゲームはそのリズムに合わせてボタンを押すというゲームであるとする。

その前提を受け入れたうえで「判定部がサウンドアイコンと同数ある」とは。
①サウンドアイコンが担っていた、フレーズを伝えるという機能を判定部が持ったということ。
②このことで、サウンドアイコンはその速さ、つまりテンポを表現する機能だけを担うことになる。

もう一度[1]に戻ってみましょう。
[1]では、フレーズとテンポはすべてサウンドアイコンが担っています
これら機能を別々の表示部に分けた、これが「初音ミク -Project DIVA-」シリーズの革新性です。



ぐだぐだと説明してきましたが、要はこういうことです。




メリット

今までは同時に認識しなければならなかったものを別々に処理可能なものにした。
今まではリズムの「構造」が認識しづらかった。たとえばテンポが速すぎればそれだけでフレーズを確認することが難しくなります。
しかし、このインターフェースならば少なくともフレーズは確認できる。
こういうこともあるので、DIVAは音ゲーとしては簡単だ、ぬるい、と言われるのかもしれません。
しかしこの考察を経て単純にそう言うだけでなく、別の考え方をすることもできます。
散りばめられた判定部を見てフレーズを把握し、サウンドアイコンの流れる速度でテンポを認識する。そうした2つの認識形態を、マークが重なる瞬間にボタンを押していくことで合一させていく快感。
これは、他のリズムゲームでは得られないものなのです。


補足:象徴性

画面上に判定部を散りばめたことにはもう一つ意義があります。

判定部(フレーズ)の並べ方に象徴性を与えることで意味が表現されることです。
例えば、くるくる回る→円形に回転する向きに判定部を並べる、など。
http://www.youtube.com/watch?v=6reiKZ8UDgM
[初音ミク Project DIVA f ] ワールズエンド・ダンスホール[EXTREMEプレイ動画]

このように歌詞と判定部の並べ方を一致させるといったことから、ノリのいいパートならばそれを補強するような流れをつくるというより大きな曲と譜面との一致の表現に使われています。
そしてそれらは画面の演出と同時に行われ、相乗効果を生む。
ただリズムと動物的反応による合一をしていくのではなく、よりリズムと人の感情を一致させていく。
これはエンターテイメントの形式として非常に優秀で、その意味で「初音ミク -Project DIVA-」シリーズは傑作なのです。


他参考動画:
http://www.youtube.com/watch?v=sMHcFpl1fQM 歌詞との一致
http://www.youtube.com/watch?v=VLaTDcrAggQ ミスの判定機能と歌詞”歌わせる”
http://www.youtube.com/watch?v=V8g2pdnzcos 単純に好き












2013年6月13日木曜日

『メタルギアライジング』に見た3Dアクションゲームの可能性

このアクションゲーム、抜群に面白い。
自由切断とシノギのシステムがアクションゲームに新しさをもたらしています。

自由切断

自由切断というギミックというお題に対するプラチナゲームスの答えは、制限時間内に特定部位を正しく切断するというもの。


この時スローモーションになるのですが、周囲の敵からの攻撃は続いているので早めに正しく切らないと攻撃を受けてしまう。
HPと、この斬奪モードに入るための高周波ブレードのエネルギーが減る。これがリスク。
そしてリターンは、「HPとエネルギー全回復」。
とにかく、HPがやばい時ほど斬奪を成功させないといけないのですが、そういう時は決まって敵がわんさか残っているようなヤバイ状況の時ばかり。
この緊張感と、斬奪が決まった時の手応え。このシステム、敵を正しく倒さないと回復できないというところがミソ。
自由に切れるからこそ、自由に切らせるのではなく、ターゲティングとして活用する。
ここにこのゲームの本髄、オリジナリティがありますね。
3Dアクションゲームにはまだまだ発想の余地がある。まさに、「ベヨネッタ以後」のアクションゲームです。

シノギ

もう一つ、シノギ。敵の攻撃にスティックの方向性を合わせてタイミングよくボタンを押すことでシノげ、そこから転じてカウンターにも繋げられるこのシステム。


要は(方向性を持った)ジャスガです。
敵のパターンを覚える→回避→自分のターンというのが3Dアクションの黄金パターン。
ですがメタルギアライジングには回避がありません。ニンジャランで逃げることはできるのですが、つまり敵との適切な間合いを調整する操作がないのです。
相手との距離的な関係性がゲーム性を生んでいた今までの3Dアクションとは違うのはこの点です。
間合いが存在しない。すべてガチンコのぶつかり合いです。
これが斬新でした。敵は縦横無尽に、あらゆるところから、四方八方攻撃を仕掛けてきます。距離の概念はありません。
今までのゲームだとこういう状態になると敵の攻撃を把握できないのでなんとなく回避するという消極的な行為にならざるをえません。
ですがメタルギアライジングはシノゲばいいのです。そして反転カウンターです。この動きまわる敵を捕まえてボコボコにする快感!

ストーリーがどうとか巷では言われているようですが関係ありません。
このゲームは3Dアクションゲームの新たな傑作なのですから。

リスクとリターン/ゲームにおける「駆け引き」

前回の記事では「ゲーム性とは駆け引きである」ということを説明しました。
そしてそこから駆け引きの構造をうまく設計することがゲームデザインだというが導かれました。
ここではゲームにおいてもっとも普遍的に用いられる駆け引きである「リスクとリターン」という概念について紹介したいと思います。
まずはこの記事を読まれるといいです。これはゲームを知る上では必読の記事であります。
http://gigazine.net/news/20120821-sakurai-cedec/
これらを踏まえた上で説明をしていきます。

時間概念

距離と時間と速さの関係

一般にあるボードゲームなどとTVゲームの大きな違いは、「時間」があるかどうかです。と言うよりも、「時間」がリスクに大きく関わってくる、それがTVゲームです。
自分が「選択」する時、「時間」はどのような形をとって、リスクをもたらしてくるか?

  1. 時限性があるもの。制限時間内に「選択」してリターンを得る。
  2. また「時間」は「距離」と隣り合っている概念。相手との距離が縮まる(リスクが高まる)一方でリターンを得るために「選択」をする。

これら2つのコンビネーションがTVゲームにおける駆け引きの中核をなしています。
それが時間によるものなのか、距離によるものなのかはアクションゲームにおいては渾然一体としています。
シミュレーションにおいてはリスクは時間よりも距離によって表され、
FPSにおいては距離よりも時間において表されるというふうに、この2つが別々に現れることもあります。
色々なゲームに当てはめて考えてみてください。

例をFPSにおいてあげれば、敵の前に姿を見せれば、相手に打たれるよりも先に撃って撃破するか、障害物に隠れなければなりません。これって記事中にあるインベーダーの仕組みと似ていませんでしょうか?TVゲームはその端緒からこのようなルールで作られてきたのです。
「ゲーム性」はゲームを支える根本原理であることがこのことからもわかります。
常にリスクとリターンはゲームの俎上に載せられているのです。


この記事を書いている時間で私の人生のリスクが高まっているのでリターンを考えてこのへんにしておきましょう。それではまた。

ゲーム性について/良いゲームをデザインすることとは

ここでは挨拶で述べた「ゲーム性」について話そうと思います。

ゲーム性が持つ価値

ゲームは多様な面白さ、価値を包含したメディアです。それゆえにストーリーであるとかグラフィックであるとか、一点劣るところがあればそこから叩かれてしまいがちで、作品自体に正統な評価が下されがたい。それに統一的な見方を与えてくれるのが「ゲーム性」です。ゲームを「ゲーム性」から見ることはそうした装飾的な部分よりもゲームの本質的な価値を気付かせてくれます。

ゲーム性の定義

「ゲーム性」は人それぞれ使い方が異なり、使用シーンに応じてフィーリングで使われるマジックワードだという批判がよくされます。
しかしいったん定義づけておけば思考において便利に扱える道具であることは確かなのです。なので、みんな使っている。

そういうわけで、この記事において一応私なりの「ゲーム性」の定義をしておかねばなりません。今後私のブログで「ゲーム性」というワードが出た時に、参照していただければと思います。
そうは言いましてもそう難しいことを言おうとしているわけではありません。あくまで「道具」ですし、言葉の定義に情報量を詰めすぎては道具たりえませんから。

ゲーム性とは駆け引きである

では、ゲーム性とは何か。見出しで言ってますね。これは桜井氏がよく発言されるので皆さん知っておいででしょう。ええ、ええ。しかし、この「駆け引き」の前後に当たる言葉までを含めて「ゲーム性」という言葉は理解されなければいけないというのが今回しようとしている提言です。

図にするとこのようになります。ジャンケンに例えて順を追って説明していきます。

「選択」 グー・チョキ・パーの中から我々は手を選択します。
「勝ち負け」 相手の出した手によって勝ったり負けたりします。

「駆け引き」は?
「駆け引き」は我々の目には見えないのです。
我々は「選択」をして「結果」を得る。これが、プレイヤー目線ではすべてです。

ではプレイヤーには見えない中間の実態はどうなっているのか。
ここで「駆け引き」は、”相手が何を出すか?”、”そして自分は何を出すべきか?”とプレイヤーが予想することで生じています。
そうして考えをお互いに巡らせてるよう仕向けているものは何か?
それは、3すくみという「ゲームのルール」ですね。

つまり、「駆け引き」が生じるということは、ゲームのルールが設計されていなければならない。
「駆け引き」がこの「選択」と、「勝ち負け」という因果の中間に確からしくあることが、ゲームにおいて「ゲーム性」がある、というのです。
(ゲームおいて「選択」とはスティックを傾ける、ボタンを押すというレベルのものからより複雑な操作まで含みます。)
この駆け引きがうまく構築されているか?ということがゲームの「ゲーム性」を測るときの基本的な考えになります。
このようにして初めて、「ゲーム性は駆け引きである」ということが言えました。


おわりに

「選択」と「勝ち負け」の間にうまく橋をかけること(マイナスをどのようにして避けるか必死に考えさせ、プラスの快感値をどのようにして最大に大きくするか)、それが「良い」ゲームをデザインするということです。
このゲーム性にまつわる話はとても多くあり、ここでだけでは紹介しきれません。ぽつぽつとそれらをこのブログで書いていけたらうれしいなあと思います。

補足:これだけ言いたい。「ゲームはグラフィックではない」という人がよくいます。しかしそれは違います。なぜなら、結果は必ず、グラフィックとして出力されるからです。つまり、勝った喜びを我々に伝え、もり立ててくれる(プラスの快感値を最大に大きくする大きな要因)のはグラフィックでしかないのです。これは、駆け引きがうまく構築されていないのに、美麗なグラフィックが出力されていることに対する違和感なのでしょう。
と、このようにゲーム性から見ていくことで問題点はよりクリアになります。ぜひ、一度この視点からゲームに触ってみてください。色々な発見が必ずあります。

挨拶

どうも初めまして。

ここはしがない大学生が主にコンシューマーゲームを、ゲーム性の観点から分析、批評したものを書いていくつもりです。
書かれたものに価値を見出されるかは分かりませんが、その時は自分の忘備録として役に立つでしょう。

ではどうかよろしくお願いします。